龍穏寺
2016年4月16日
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龍穏寺(りゅうおんじ):龍穏寺は永享の頃(1429-1441)に将軍足利義数が上杉持朝命じて尊氏以来の先祖の冥福と戦乱に果てた人々の霊を ともらうために創立したものといわれる。しかしその後兵火にかかったので、文明4年(1476)に太田道真、道灌親子によって再び建て直された。 天正18年(1590)には、豊臣秀吉から御朱印百石を受け、ついで慶長17年(1612)徳川幕府から関東3か寺を命じられ、
龍穏寺はその環境や建物が大本山の永平寺に似ているところから小永平寺と言われている。
今からおよそ1200年前、奈良平安時代に山岳仏教として開かれ山伏や修験道の行者たちによって保たれていたが、時代の変遷とともに
衰徴し、永享2年(1430)に至り、将軍足利義数が鎌倉時代後、関東における敵味方の戦死者の菩提を弔うため、関東管令上杉持朝
(初代川越城主)に命じて義数が日頃帰依している無極禅師(児玉党・越生氏出身)を請して開山第1の道場とした。
のち、うち続く兵乱のため荒発し、第三世泰叟禅師に至って太田道真、道灌父子とともに義教の意思を継承し、また日頃より帰依する
泰叟和尚のために再建した。以後、天下の鬼道場として一世を風靡し、多くの修験僧魂胆を寒からしめた。 かかる故に天正18年(1590)豊臣秀吉より百石の御朱印(寺領山林は300町歩、現在の龍ヶ谷の全部を含む)の寄進をうけ、慶長17年 (1612)徳川家康より曹洞宗法度の制度を命ぜられ関東三大寺流穏寺、大中寺(栃木県)、総寧寺(千葉県)の筆頭として活躍し、寛永13年 (1636)江戸幕府の寺社奉行諮門席に任ぜられ、格式10万石をもって遇せられた。 |
而して江戸には別邸(現在の南麻布のイラン大使館)
を与えられ、歴代の住職は、幕府将軍によって決定せられ、大本山永平寺(福井県)に自動的に昇任した。現在末寺70余ヶ寺全国に
拡がっている。
しかるに惜しいかな、明治維新の改革に際して寺領はすべて没収され、その後の廃仏棄釈令(神仏分離令)にあい、従来の特権は召し上げ
られ、その上大正2年(1923)諸堂焼失の悲運にあい、昔日の面影はまったく失うに至った。しかも、当寺はこのように城主や将軍家に
よって保護せられ修験寺として、大名寺としても発展して来たがために当初から檀家はもたなかった。しかし、近年に至ってささやか
ながらも徐々に復興の兆しが見えつつある昨今であります。かつて読売新聞埼玉版に「武蔵野は生きている」武者小路実篤監修に次の
ごとく紹介された。「武蔵野のはてる所、太田道灌公静かにねむる」と。道灌に神奈川県伊勢原市糟屋にて父より先立って文明18年
(1486)に謀殺されたが晩年父、道真によって当寺に葬られ風化した五輪の塔となって父道真の墓と共に武蔵野の風に吹かれています。 龍穏寺縁起(龍穏寺64世住職、小林卓苗謹書) |